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日本海を知る

交流の歴史

交流の歴史と今、そして未来へ

古代より対岸地域の諸国との交流を通して、日本の窓口としての役割を果たしてきた日本海沿岸地域。東西冷戦をのりこえ、ふたたび「交流の海」として蘇った日本海には、21世紀に向けて、さらなる期待が寄せられています。

1. 交流の歴史

(1)対岸諸国との交流
渤海使節団が来航した福浦港(石川県富来町)

渤海使節団が
来航した福浦港
(石川県富来町)

北前船の里資料館(石川県加賀市)

北前船の里資料館
(石川県加賀市)

みくに龍翔館(福井県三国町)

みくに龍翔館
(福井県三国町)

 日本海沿岸地域と対岸諸国は、弥生時代の水稲技術伝来をはじめ、古代から盛んに交流が行われていました。

 推古8年(600)には、日本から随(581~618)へ使節が派遣され、隋が滅びて唐(618~907)が興ってからも約20回にわたり遣唐使を派遣。これにより、当時の先進国である中国の制度や書物が日本へ導入され、日本の国政改革や文化の創造に多大な影響を与えることになったのです。

 8世紀に入り、神亀4年(727)には満州東部から北朝鮮にかけて栄えた国家・渤海から高斉徳が来日し、以降200年間で36回にわたり渤海使節が渡来。北陸の福良津(現福浦港)、三国湊(現福井港)、大野湊(現敦賀港)などが基地港となり、使節迎賓の館として、福良に能登客院、敦賀には松原客員が設けられました。

 鎖国令が布かれた江戸時代にも対岸諸国との交流は途絶えず、慶長11年(1607)に、朝鮮王が徳川将軍の代替りを祝うために日本へ朝鮮通信使を派遣。以降、文化8年(1811)まで12回にわたり来日しています。朝鮮通信使は、対馬から赤間関(下関)に入り、瀬戸内海を通って大阪へ、そこから陸路で江戸まで達しました。朝鮮通信使が立ち寄った各地には、ゆかりの踊りなどがいまなお受け継がれ、現存する施設もあります。

(2)日本海の沿岸地域との交流~北前航路へ
往時の朝鮮通信使行列を偲ぶアリラン祭(長崎県対馬市)

往時の朝鮮通信使行列を
偲ぶアリラン祭
(長崎県対馬市)

皆生海岸(鳥取県)

皆生海岸(鳥取県)

 越前の敦賀港と若狭の小浜港を起点とする北国海運は古代から開拓され、北陸の官物や荘園年貢などを京阪へ運ぶための中継運送に重要な役割を果たしていました。

 江戸時代に入り、寛文12年(1672)に川村瑞賢が幕府から奥州最上郡(現山形県)の天領城米の江戸への運搬を命じられ、酒田港から下関海峡を通過し、大阪を経て江戸へ到る西廻り航路を整備開拓。これ以後、明治初期に到るまで、西廻り航路は日本海沿岸地域と京阪・関東を結ぶ交通の大動脈として機能し、中でも、日本海沿岸地域と大阪を結ぶ航路は各地の産物のやり取りをする商業の重要な航路として「北前航路」と呼ばれました。

 「北前航路」を行き来した北前船が寄港した港周辺には回船問屋や倉庫などが立ち並ぶ町が形成され、賑わいをもたらしました。また、北前船を通じて食文化や祭り、民謡などが日本各地に伝わったことから、北前船は日本海沿岸各地域の文化や人々の交流にも重要な役割を担った船としてもとらえることができます。

2. 日本海沿岸地域の現況と展望

(1)港湾と海を活用した地域づくり
秋田港セリオン(秋田県秋田市)

秋田港セリオン
(秋田県秋田市)

七尾フィッシャーマンズワーフ(石川県七尾市)

七尾フィッシャーマンズワーフ
(石川県七尾市)

 日本海に面する市町村は1道1府14県にまたがり、その数257市町村。人口総数や製品出荷額、商業販売額の全国に占める割合は10%に満たないものの、港湾数は全国の約21%を占め、人口などの社会経済指標に比べ、港湾関連の担う役割が大きな割合を占めています。

 こうした社会経済状況の中、日本海沿岸地域にとって、日本海と港湾という資産の有効活用は、地域活性化の大切な要と言えるものです。

 そのため、港湾を流通拠点として活用するだけでなく、海洋性レクリェーションなどさまざまな面から活用法を見出し、ハードとソフトのより一層の充実を図ることが重要となってきています。

(2)環日本海交流への期待
釜山港コンテナターミナル(韓国)

釜山港コンテナターミナル
(韓国)

ウラジオストック港(ロシア沿海地方)

ウラジオストック港
(ロシア沿海地方)

 平成10年3月に閣議決定された「21世紀の国土グランドデザイン」(五全総)で、日本海沿岸地域は、多様な地域特性を十分に展開させて国土の均衡ある発展を実現する「多軸型国土構造形成」を目指すひとつの軸として、「日本海国土軸」が位置づけられています。

 その展望は、「地域独自の歴史や風土、自然を有機的に組み合わせたネットワーク形成」と「環日本海交流を推進し、国際交流の窓口としての役割を担う」ことで、各地域の振興を図るというものです。

 東西冷戦構造の崩壊など、国際状況の変化の中、「緊張と対立の海」から「交流の海」として蘇った日本海。日本海沿岸地域は、対岸諸国との交流窓口として、人流や物流のゲートウエイ機能の更なる充実を図ることが期待されています。

 そして、その役割を担っていくためにも、沿岸各地域が互いに補完しあい、協力しあう交流ネットワークが重要となっているのです。