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日本海を知る

にぎわい探検隊 北前船の巻

其の壱拾参 金沢港(石川県金沢市)

弘化2年(1845年)に作られた千五百石積御手船、常豊丸の1/4模型 「銭屋五兵衛記念館」内(撮影許可をいただいてます)

弘化2年(1845年)に作られた千五百石積御手船、常豊丸の1/4模型
「銭屋五兵衛記念館」内(撮影許可をいただいてます)

 金沢港は昭和29年に旧大野港(オオノコウ)と旧金石港(カナイワコウ)を合併し金沢港となりました。金沢市内を流れる2つの川「浅野川(アサノガワ)」と「犀川(サイガワ)」。浅野川の河口が金石港、犀川はまず河北潟に注ぎ込み、そして大野川となり、その河口が大野港となっています。

 金沢市近隣は、かつて大きな港湾が無く海上輸送は七尾港や伏木富山港を利用していました。しかし昭和38年の冬、いわゆる「38豪雪」の際、陸上輸送が大雪のため途絶えたため陸の孤島と化し、物資の海路補給、なかでも燃料確保が地元の課題となりました。その要請に応えるため昭和39年に重要港湾の指定を受け、大野川右岸に掘込港湾の建設を着手し、現在の金沢港の形になりました。

 まずは昔「宮の腰」と呼ばれた金石港近くの「銭屋五兵衛記念館」へ。

(詳しくはコチラを→http://www1.ocn.ne.jp/~zenigo/index.html

 金沢と言えば「加賀百万石」で有名ですが、金石港には「海の百万石」と呼ばれる豪商「銭屋五兵衛」(地元では「銭五」の名で親しまれています)がいました。安永2年(1773年)に金銭両替商の家に生まれ、屋号は「銭屋」。17才で家督を継ぎ古着屋・呉服商なども営むようになり、39才の時に中古の120石船で米を運び海運業を始め、その後20年あまりで全国に30数店もの支店と大小200隻あまりの船を保有し「海の百万石」と呼ばれるまでになったのでした。加賀藩から藩の金融経済の要職を預かり、御手船を建造し苗字帯刀もゆるされ、赤字で苦しむ藩のため御用金の調達(寄付みたいなもの?でしょうか)までしています。さらには、鎖国の時代に海外まで進出し、アメリカやタスマニアも貿易の相手だったそうです。

「銭屋五兵衛記念館」銭五の商い

「銭屋五兵衛記念館」銭五の商い

昆布は俵に詰めて運びました。

昆布は俵に詰めて運びました。

銭五伝説

銭五伝説

海外貿易説

海外貿易説

加賀の海商

加賀の海商

「銭屋五兵衛記念館」入り口の「北前船の大錨」

「銭屋五兵衛記念館」入り口の「北前船の大錨」

 加賀藩は百万石として格式が高く、それに見合った出費も多いため、藩の財政はかなり苦しいものだったようです。例えば、東京大学の「赤門」(文政10年(1827)建造)。現在の東大の敷地はもとは加賀藩の藩邸の敷地で、十三代藩主前田斉康(ナリヤス)が徳川十一代将軍の娘「溶姫」を正室に迎える際に慣例に従い豪華な朱塗りの御守殿門を建てたのが「赤門」です。また、1833年(天保4)から約5年間の天保の飢饉などもあり、藩財政はさらに悪化していきます。

 加賀藩は当初、藩の財政立て直しのために「銭屋五兵衛」を利用し海外貿易を黙認していましたが、しだいにその密貿易が幕府に知れるのではないかと恐れるようになりました。「銭屋五兵衛」は後年、河北潟の干拓事業(1851年〜)も手がけていましたが難工事となっており、さらに潟の魚が死にそれを食べた漁師が中毒死する「河北潟事件」が起きたため、嘉永5年(1852年)に潟に毒を投入した疑いで銭屋一族は検挙され、同年11月に「銭屋五兵衛」は80才で牢死、その後家財は没収、家名は断絶となりました。

 どうやら「銭屋五兵衛」は無実だったようです。推測の域を出ませんが、加賀藩は密貿易の発覚を恐れたため処分されたのでは・・・という説もあります。

北前船が航海していた時代、香住港の付近には多くの良港があり(芝山、今子浦など)、その一つの今子浦は西側に開けており、風待ち港として使い勝手が良かったようで多くの船が利用しました。

からくり記念館を案内するからくり人形

からくり記念館を案内するからくり人形

からくり記念館の近くのお台場公園 北前船のモニュメントがあります

からくり記念館の近くのお台場公園
北前船のモニュメントがあります

大野湊神社の入り口、左は金沢西警察署

大野湊神社の入り口、左は金沢西警察署

大野湊神社の由来

大野湊神社の由来

大野湊神社に奉納されている 実物大の白馬の置物(リアルです・・・)

大野湊神社に奉納されている
実物大の白馬の置物(リアルです・・・)

金石湊の日和山跡。今は低く削られて、大野湊神社の仮御殿が建っています

金石湊の日和山跡。今は低く削られて、
大野湊神社の仮御殿が建っています

 また蛇足ですが、石川県が「金沢県」とならなかったのは、明治政府が加賀藩士のプライドの高さに嫌気がさし、県庁を石川郡美川町(今は2005.2.1の市町村合併で白山市)に移したためだとか。石川は「郡」の名前だったのです。(光あるところに影あり、って感じです)

 しかし「銭屋五兵衛」が地元に残したものは多く、今は「石川県銭屋五兵衛記念館」、「銭五の館」などで、彼の業績を詳しく知ることが出来ます。また、「銭屋五兵衛」と交流があった科学者「大野弁吉」を紹介した「からくり記念館」なども金沢港の河口に建っています。

 さらに今回紹介し切れませんでしたが、金石の本龍寺には「銭屋五兵衛」の墓、大野日吉神社の近くには「大野弁吉」の居住跡、夕日が沈む金石海岸はデートコースになっていますし、お台場広場の近くには釣り場もあります。
(詳しくはコチラを→ http://www.awacho.co.jp/main/tour/0615tour.htm しょうゆ屋さんのホームページです)
 是非金沢市に行ったおりには「加賀百万石」だけでなく「海の百万石」もご覧ください。

金石小学校横、銭五公園の銭屋五兵衛の銅像 今も海を見つめています

金石小学校横、銭五公園の銭屋五兵衛の銅像
今も海を見つめています

大野は醤油が有名です(カンバンに「大の」) 通りを歩くと醤油の良い香りがします しょうゆソフトがお薦めです

大野は醤油が有名です(カンバンに「大の」)
通りを歩くと醤油の良い香りがします
しょうゆソフトがお薦めです

 次は浜田港です。

2006.1.1 (by 隊長)